自分がおたく系評論を(同人で)やっているわけ

g+にはったのだけど、mixiの日記にもしてしまおうw
長文です。

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今朝RTで流れてきたツイートなんだけど、「サブカルオタク文化を」「どうにかして」「社会を読み解く鍵にしている人って」「恥ずかしいからの言い訳にやっているんじゃないかと邪推」「面白いから支持しているだけなのに」的なヤツが。丸ごと引用するのはアレなので、伝聞風に。

いろんな方向から反論出来るのだけど、どこからしようかな。

まずは自分のスタンスから。
自分は同人でだけど、おたく系評論をやっていて、提示したツイートが指すように社会を読み解く鍵というか、大きな要素のひとつとして考えていたり。
おたく系作品と言えど、社会の影響を大きく受けているという点と、自分の得意分野から社会を見つめるというのは別におたく系じゃなくても有意なことだと思っている。
「小を見て大を語る」的な指摘を別の方からいただいたのだけど、それはある意味正しいのだけど、ちょっと見方を変えると、比喩としてはちょっと違うかなと。

サブカルって言葉嫌いなんだけど、便利だから使っちゃうけど、サブカルって若者文化なんだよね。この場合の若者というのは肉体年齢ではなく、精神年齢に近いかな。
脱線気味だけど、なんで「サブカル」って言葉が嫌いかっていうと、「サブ」「カルチャー」で「主流の文化」があっての「支線の文化」ってイメージを持っちゃうから。「主流の文化」がなくても、サブカルは「文化」として成り立っていると思っているから。世間一般で言われる文化というのは「芸術」「文学」「クラシック」あたりかなと思っている。で、この「一般的な文化」というのは、教養があるのを前提として成り立っている物が多いんだよね。教養がなくても問答無用にすごさがわかる「一般的な文化」はもちろんあるんだけど。
で、その、「教養」ってなんだろうって考えた場合、「権威」に近い気がするんだよね。で、「権威」は「権力」に近いと思う。
優れた「文化的な作品」は人によって評価が分かれて当然だとは思うけど、大系が出来ないし、それじゃ教科書に載せにくいのだよね。「一般的な文化作品」を楽しむための「教養」を「権威」が指し示して、それを「権力」が後押ししているってパターンが多いと思うのだよね。それが全てじゃないのだけど。
たしかに、教養があったほうが楽しめる作品というのは数多くにあると思う。しかし、その教養ってのは、人生経験から得たり、興味を持ったものをより詳しく知るために調べたりする過程で得るのがいいと思っている。
「この作品を楽しむためにはこれだけの教養が必要だ」って押しつけられたら、萎えちゃって、せっかくの作品がつまらなくなっちゃうし。
サブカル作品も実は「教養」が必要。萌え要素のいくつかを押さえたり、お約束パターンをある程度知っておかないとあんまり楽しめない。もちろん、サブカル的教養がなくても楽しめる作品も多くあるのだけど。
おおきく違うのは、“サブカルチャー”という軽視された状況なので、「権威」による「教養」の強制はあんまり無い所。だって、サブカルチャーを権威付けしても権力にならないから。今のところね。
サブカル系「教養」は受け手である「俺たち」で決めちゃって良いところがあるところ。「教養」といっても明文化されてないぶん、流行廃りにかなり左右されるから、かなり流動的。例えば「ツンデレ声優といえば釘宮理恵」。ほら、これって、すでに風化してるでしょ? でも、ちょっと前までは「俺たち」の「教養」だった。サブカルの教養って流動的な分新しい価値観も取り込みやすいと思っている。

ちょっと長くなったけど「サブカル」を若者文化とすると、「一般的な文化」は大人の文化って事になる。でも「俺たち」は「サブカル」でも大人でも十分に楽しめるとなんとなくは思っている。
日本でのサブカルがかなり成熟している事でもあり、先人達の偉業でもあると思う。
つまり、自分はサブカルは「成熟した若者文化」って事で、「教養」が必要な「一般的な文化」に並ぶほど文化的だと思っているのだよね。
ここまでの話は長かったけど、なぜ自分が「サブカル系評論」といわずに「おたく系評論」といっているか多少なりともわかってもらえたかなと。
ようやくここで先のツイートの反論になるのだけど、文化的な作品から社会を紐解くのは評論という視点で作品を見るとごく自然だということ。

別の切り口から。
おたく系作品と言えど社会とは無関係にいられないという事。
大きな区切りでいえば、第二次世界大戦があって、それに日本が負けたという事から、宇宙戦艦ヤマトガンダムが生まれたって思ってる。ヤマトはそれほど詳しくないから多くは語れないのだけど、仮に日本が勝っていたとしたら、ヤマトという作品の見方はかなり変わったんじゃないかと。ガンダムはかなり意欲的に第二次世界大戦の要素を取り込んでいると思う。ジオン軍の扱いとかね。最近の作品の話にすると、ストライクウィッチーズ、あれは、冷戦が終結して数十年経った今だから、単純に第二次世界大戦にロマンを求められて、さらに萌えに転化できたと思うのだよね。
ピングドラム地下鉄サリン事件から15年以上経ったから、オウムの様な組織を出せたと思うのだよね。
自分が最近はまっているプリキュアを引き合いに出すけど、「女の子が肉弾戦で戦う」という物語を「男尊女卑の社会」だからウケたのか「男女平等の社会」だからウケたのかを考えるのは有意だと思ってる。ちなみに自分の答えはどちらとも言えない。答えを濁すのではなくて、中間から平等よりの社会だから受けたのかなと思っている。「男尊女卑」の価値観では作品自体が出てこなかっただろうし、「男女平等」が行き届いていたら「女の子だって暴れたい」というプロデューサーの言葉は出てこなかっただろうし。
また、日本が表現に比較的寛容な国だから、様々なアニメが生まれてきたとも言える部分もある。「子供向けで暴力的な番組」という作品から、「30分丸ごとおもちゃのCM」の様な作品が許されるというのは、クリエーターの才能以前に「社会がそれを寛容する」という前提があっての物だと思っている。
笑い話じゃ済まなくなってきている気配があるのだけど、「フィクションの中での法律違反」をどこまで許容されるかってのは、社会と作品の表現に直に繋がってるんじゃないかな。法定速度を守る頭文字Dは見たくない。

また別の切り口から。
フィクションで想像力を鍛えるのは有意なことだと思う。
例えば「戦争を知らない世代は平和ボケだから戦場に行けばいい」って意見があるとする。戦争は否定する物として話は進めるけど、平和を守るために戦場が必要だとするとそれはひどく矛盾した物で、教育に戦場を必要とする方こそ平和ボケだと思う。実際に戦争をやらなくても、戦争が起こったらどうなるかって想像力を鍛えればいい話だと思う。その想像力を鍛えるため、フィクションを見るというのはアリだと思う。それらしい言葉で言えばシミュレーション出来る能力を身につければいいわけで。
戦争は大きな話にしても、親の敵としても、人を殺すのはどういう事か、身をもって体験するのは破滅を意味するので、想像の範囲ですますに越したことはないし。
例えばハガレンを読んで戦争の愚かさや命の尊さを知ることは幼稚とは思わないんだよね。

もう一つ別の切り口から。
ここ近年、「永遠に続くかのような日常」を描いた作品がたくさんあるのだけど、2011年の大震災でその永遠かと思っていた日常は永遠じゃなかったと認識するのも有意な事というか、「永遠に続くかのような日常」はリアルに近いフィクションじゃなくて、リアルから遠いフィクションに変わったって捉え方も出来るのだよね。


最後に。
いい歳こいてサブカルなんかにはまっていて恥ずかしくないのかって聞かれれば、「恥ずかしい」ともいうし、「恥ずかしくない」ともいう。それは相手を見て使い分ける。「サブカル」を下にしか見られない人に「恥ずかしくない」っていってもしょうがないし。
また、サブカル以外でも、趣味にはまることについての後ろめたさはどのジャンルでもあり得る話で。
あと、「楽しんでないの?」的な問いには、「全力で楽しんでいる」ぐらいの答えかな。楽しむあまり考察しているのだから。この辺、職業ライターではない気楽さでもあるのだけど。

余談的にちょっと別の話。
評論って一部の人に「生理的」「脊髄反射的」に嫌われているんだよねぇ。作品を語るのは「好き」か「嫌い」で十分だろって単純化しちゃったり。
多分それは、議論される怖さや分析される怖さが根底にある気がする。
あと、「小難しい理屈こねくりまわして煙に巻いているのが怖い」的な防衛本能的反応かな。
冒頭で引き合いに出したツイートはそんな意識が根底にあるんじゃないかなと、ツイート主が一番嫌がるであろう考察をしてみる(笑)。

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今日のシェイプボクシングもおやすみ。
体重はプラマイゼロ。
昨日増えた分減らなかった…。

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今日のラブプラスもさくっと。