ラブプラス考

3DSNewラブプラスについて、少し考えてみた。

もしかしたら、革命的なソフトかもしれない。

DS版のラブプラスラブプラス+と、基本的にやることは同じなのだけど、3D立体視がヤバイ。

DSラブプラスはタッチペンでコミュニケーションするという要素がある物の、既存のギャルゲーの文法で作られていたと思うし、DSの中にいる“彼女ら”は、記号の集まりというのはどこかわかっていた。

なんで、3D立体視がヤバイかっていうと、「見慣れてない感」も手伝い、3DSラブプラスという電子の妖精が住んでいるかのようだから。

それまでのラブプラスはハッキリ言って、「萌え」の文脈の「記号」で萌えていた。

それが、まるで、ゲーム機の中に「生きて」いるかのように錯覚してしまうのだ。
もちろん、理性ではそんな事あり得ないと思っている。

でも、“彼女”と会う時、思わず、カメラ機能を使って写真を撮ってしまう。

写真は「時間や空間を切り取るツール」でもあり、「思い出のしおり」でもある。

ゲームなんだから、彼女と会いたい時に会えばいい、と考えると、わざわざゲーム内で「写真」を撮るのはあまり重要では無さそうな感じだ。

しかし、つい“写真”を撮ってしまう。
それは、“彼女”とのやりとりが、一期一会的に思えてしまうのだ。
この感じ方はヤバイ。
ヤバイという言葉の用法には「すごい」「危ない」などあるが、すごくて危ない。
ゲーム機といえ、“彼女”に会いに行くのが一期一会的だとすると、その積み重ねは「思い出」になる。
思い出のしおりとしての“写真”も残る。
3DSラブプラスの写真は、立体視出来る3D形式ではなく、SDカードのDIMCフォルダに保存されるjpegである。技術的には立体視出来る写真を保存するのは簡単どころか、だれでも思いつくだろう。
それと、ありふれたjpegに、いわば、劣化させて出力するのである。
これは、デジカメデータにきわめて近いデータを出力しているという事だろう。

ゲームにハマった過去を振り返る時「あんな事やってなんも残らなかったよね」的な後悔はつきものだろう。
それが、3DSラブプラスだと、「思い出」が残るのである。

ゲームとしてはすごい。予想はしてたが、それ以上に3DSのためのソフトだとおもう。
しかし、これを人生の思い出の一部にしてしまって良いのだろうかという怖さがある。

自分は以前、DS版ラブプラスを愛着のゲームと定義したが、3DSラブプラスは電子の妖精との思い出で、ゲームという枠をすでに超えていると思う。

まあ、一般人には「萌えギャルゲー」と思わせておけばいい。本質的にヤバイと悟られてはいけない。
星新一ショートショートにロボット(アンドロイド?)に愛を告げる作品が何本か有るが、時代が追いついてきた…。もっとも、DS版ラブプラスにも愛をささやく人はいたのだけど、さらに増えるだろう。

もう、こんな恐ろしいモノ、毎日やるしかないじゃないか(笑)

唯一の救いというか、それがないから、大丈夫なラインというか、タッチするコミュニケーションにフィードバックがない。これ、手応えあるインタフェースなら、死人が出るレベル。マジで。

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プリキュアネタは何書こう。
そろそろ完走です。
MH考察はだいぶ形が見えてきたモノの、GOGOの方の考察は何書こうかすごく悩んでいるところ。かなり、前作の継承って部分が大きいんだよね。
5では語るだけの夢だったのがGOGOでは少しでも前進させたって感じかなぁ。

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今日のシェイプボクシングもおやすみ。
体重は+1.2kg。
むっちゃ増えてる…。珍しく3食食べたからかな…。

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今日のラブプラス
リンコと寧々さん双方、服屋の試着の写メを送ってくれたのに感激。