プリキュアMHの考察

例によって、プリキュアMHの考察を書いたよ。
つーか、思った以上に長くなったw
長めに書いたなぁと思っていたスイートの考察がプレーンテキストで8KBに対し、今回のは12KBもあるw
SSなんて5KBだったのにw

マジで何ページの本作るつもりなんだ…<自分w
2段組にして文字を詰め込むレイアウトを考えているけど、それをせずに普段と同じレイアウトならA5 100ページいきそうだぞ…w

さて、後は書きそびれているフレプリと、もうすぐ見終わるGOGOと、好きすぎてどう書いたらいいのか悩むハトプリか…。フレプリは世界観の話でいくっていう脳内イメージは出来ている。GOGOはあんまり書くことなさそうかなぁ…。5とGOGOって作品として割と楽しく見れているけど。

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ふたりはプリキュアマックスハート

■当事者としてのルミナス

 ふたりはプリキュアマックスハート(以下MHと略)は、前作ふたりはプリキュア(以下初代と略)の続編に当たる。
 ふたりのプリキュア、ブラックとホワイト、なぎさとほのかを引き継ぎ、ふたりが中学2年から3年へ進級しスタートする。
 また、光の勢力と闇の勢力が対立軸にあるというのも引き継ぎ、ブラックとホワイトは引き続き、闇の勢力と対峙していく。
 前作の初代ではブラックとホワイトの絆の物語という部分に注力されているためか、守られる対象の光の園は作中で説明があったものの、漠然とした物と言わざるを得ない。光の園の住人であるミップルとメップルは被保護者と言うよりは相棒的であり、中盤以降で出てきたポルンはパワーアップの為の存在になっていた。つまり、初代において光の園とは「妖精さんの国」程度の位置づけだったのである。
 ここで、MHの新キャラであるひかりである。彼女は光の園のクイーンの肉体とされている。物語の構造としては、光の園の象徴ととっても良いだろう。彼女は“知らない人にはプリキュアと判別が出来ない”シャイニールミナスになって、ホワイトとブラックとともに戦う。ここでルミナスが「キュアルミナス」ではなく、シャイニールミナスなのは、物語内の“プリキュア”とは伝説の戦士であり、光の園を守る存在で、ルミナスは“守られる存在”という棲み分けと推測する。その棲み分けがラストへの伏線になっている。
 つまり、「ホワイトとブラックが守っているのはひかり/ルミナスのような子である」とより身近でわかりやすい方法で提示されたのがMHという物語ともいえる。
 ルミナスは弱いながらもブラックとホワイトとともに戦い、時には、守られることの多い自身に悩みを持ったりする。初代では一方的に守られる存在だった光の園だが、ルミナスを象徴とし、虹の園の象徴であるホワイトとブラックと共同戦線を張る。
 後年、魔法少女まどか☆マギカのキュゥべぇというキャラによって「魔法少女とは契約である」と語られるが、MHにおいては、守られる側も前線に立つことにより、搾取構造のないパートナー的関係が築けていると言えるのではないか。

■家族の物語

 初代がパートナーの物語だったのに対し、MHは家族の物語だったとも言える。一番象徴的なのは、ひかりとあかねさんの関係性である。物語上では、ひかりがあたかもあかねさんの親戚であるようにあかねさんの記憶を書き換える。あかねさんが親戚の面倒を見るという構図ではあるが、義理の親子ともとれる。
 初代でのあかねさんは、ラクロス部のOGという要素が強く、なぎさやほのかの姉的なポジションとして立ち回る。それがMHでは、ひかりの保護者になり、なぎさとほのかの関係性も、保護対象のひかりの友達という関係性に変わる。ここで、あかねさんの持つ属性が「姉」から「母親」に変わったと推測する。ひかりの学校のテストの成績で安心する一方、なぎさのテストの成績に興味を持つのは、姉と言うよりも友達の母親的であろう。
 また、幼女的視線で言えばあかねさんはあこがれの母親像とも言える。面倒見が良くて気さくで、ひかりを一人前としてみてくれるという点である。あまりにも理想すぎる関係からか、なぎさの母親を出し、「小言は多いけど、なぎさの事を思っているんだよ」という物語を入れバランスを保っているように見える。
 ほのかの家族の話も掘り下げられている。ほのかの両親は海外を飛び回っているという設定で、ほのかは祖母と犬と供に暮らしている。初代では単純にそれだけの“設定”だったが、MHでは、「プランスに長期滞在するから一緒に住まないか」と手紙をよこす両親に対して、ほのかは今の生活を続けることを選ぶ。親離れの物語ともとれるが、ほのかにとって家族とは、祖母と犬であると明言したという捉え方が出来る。
 対象視聴者の女児のことを考える時、見ている女児達が全てが、なぎさ一家のような基本的核家族だとは限らないことを考えると、ひかりとあかねさん、なぎさと祖母の組み合わせのような多様性のある家族を暗い話としてではなく描くというのは十分に意義があることだと考える。
 義理家族の物語はプリキュア側だけではない。闇の勢力側の“館の少年”を中心とし、幹部と執事ザケンナーは家族的であった。こちららは館の少年をやや手に余し気味で、また、重要人物でもあった為、甘やかすような関係だ。孫を甘やかす祖父母という構図にもとれる。
 MHはその4組の家族(疑似家族)関係が、道徳的おせっかいを感じさせず、自然に世界観と融合している点で評価が出来る作品であろう。

■異年齢集団による成長

 MHは異年齢集団による成長が描かれた物語とも言える。初代はなぎさとほのかの二人の絆が強くなっていく様を軸に成長が描かれていたが、MHでは、対象を幼児(未就学児)から小学校低学年に合わせた「成長物語」ともとれる。MHで主に成長するのはひかりだが、その件は次章にまわし、その他の成長物語を探っていきたい。
 ここで焦点を当てるのは妖精達である。初代から続く物語だが、メップルとミップルはホワイトとブラックの相棒的存在でありながら、守られる存在である。そこにポルンとルルンを加え、異年齢集団としての成長物語が語られる。ミップルとメップルはなぎさとほのかとの関係性で見た場合は、ミップルとメップルはお世話される側である。つまり、その関係性においては義理の姉弟ともとれる。なぎさとほのかが姉でメップルとミップルが弟と妹である。それが、メップル&ミップルとポルンの関係性を取り出すと、今度はメップル&ミップルが兄姉的でポルンが弟的な存在になる。そして、そのポルンも、ルルンが出てきた時から兄になる。そうした異年齢の集団として、各々が兄姉にもなるし、弟妹にもなり、兄姉から受けてきた“お世話”と同じ様なことを弟妹にすることで、成長していっている。
 これは、単純化された体育会系的序列ではなく、集団の中において他者との関係性を築いていく時、意識的、無意識的の区別無く、自発的に自身の役割を把握し行動する事である。
 こうした集団を本論では“異年齢集団”というあまりなじみがないであろう言葉を使っているが、実のところ“社会”そのものでもあり、少人数に絞った場合は文字通りの“社会の縮図”と言える状況であろう。
 つまり、MHは対象視聴者に向けた社会の縮図の物語で、これも道徳的なおせっかいさを出さず、世界観になじませている。

■“人形”のルミナスが自我を得る物語

 ひかり/ルミナスは序盤、光の園のクイーンの肉体だけの存在だ。これを少々のSF的エッセンスを加える見ると、自我がないロボット(アンドロイド)が様々な体験を通じて自我を得ていく物語ともとれる。それは単に筆者が今そう記しただけの意味に終わらず、日常にある様々なことを新鮮な気持ちで受け入れることによって、プリキュア達が守る「日常」のすばらしさを再確認する物語ともとれる。ひかりが“人間らしさ”を得ていくのと、それをフックにししつつ、ひかりの成長が描かれている。
 ひかりが“人間らしさ”を得ていくというのは、ラストに非常に重要な意味を持つ。ラストのひかり/ルミナスが最終決戦の為クイーンになるのと、ひかり自身であり続けたいと思う二律背反的な気持ちに揺れ動くシーンである。もともとひかりは光の園のクイーンを復活させる為の“人形”だった。それが、クイーンになることに悩むというのは、ロボット(アンドロイド)に自我が芽生えた上の反乱的にもとれるだろう。闇の勢力と対峙するにはクイーンになる必要があるというのは設定だけでもわかりやすい。“人間らしくなる”部分については、設定以上に、物語の中で、ひかりがなぎさやほのかをはじめ様々な人間と関係性を持ち、また、あかねさんとは“家族”になり、日常を謳歌している流れから、ルミナスの苦悩が非常に感情移入出来る作りとなっている。4クールも付き合ってきたからこそ、決意して涙を流すルミナスを見て泣けるのである。そして、クイーンになることを選びつつも、ひかりとしての“日常”を取り戻すのに対して「ご都合主義」とは思えない。繰り返し、「答えは心の中にある」とした時点で、“日常を守る”という想いと、“日常に戻る”という想いが同じぐらい強くなった結果であろう。
 初代、MHは日常が素晴らしい物語とも言えるし、その日常を土台としたラストバトルも素晴らしかったと言える。

異世界を守る物語から、守られた日常の物語へ

 MHをバトル物として見た場合、序盤では光の園を守る物語だったのが、ラストでは虹の園(現代)を守るものに自然とシフトしていた点が秀逸と考える。
 筆者はプリキュアを「非日常にあこがれを持たせつつ日常に戻る物語」と分析している。プリキュアは“非日常”の存在で、“日常”とは変身(変身バンク)で繋がれている。MHでは敵の襲来があると、周囲が暗くなり、“非日常”にわかりやすく切り替わっている。戦闘で壊れた建築物やクレーター化した地面は戦闘が終わると元通りになり、“日常”に戻る。
 こうして、明示的に“日常”と“非日常”を行ったり来たりしている物語だが、最終決戦で焦土になるのは“日常”の「虹の園(現代)」である。何となく漠然とした妖精の世界の「光の園」を守るのではなく、虹の園を守る物語に転換するのである。(余談かつ別の原稿に既出だが、初代、MHと秀逸なのは、闇の勢力に蹂躙された世界と、第二次世界大戦末期の焦土化した町並みをだぶらせているところである。)
 物語の序盤では、「何となくプリキュアに変身して平和を守ってます」的な物語だったが、4クールという長い物語の中で(初代を含めると8クール)、守っている日常を明確にしたうえで、なぎさとほのかはそれを守る為に戦う意志を固くする。守るべき点を明確にすることで、「守ってやっている」感や「強いられている」感が無くなっていると言える。

■表裏一体の光と闇

 最終決戦でクイーンは闇の勢力を滅ぼすのではなく、バランスを取りたいとし、共存の道を打ち出した。
 単純に「光あるところに闇がある」ともとれるが、これは、突然出てきた話ではない。闇の勢力に敵愾心を感じさせない“館の少年”を出すことにより、「戦わなくてもいいのではないか」という可能性を漂わせていた。それが具体的になるのは終盤のひかりと館の少年が出会うところである。ひかりは「私たちは似ている」という。これは物語の重要なポイントであった。ひかりという存在は、初代でジャアクキングとの戦いで傷ついて自身の体を維持出来なくなったクイーンが体と心と精神が分離した結果だ。それを鏡で映したように、同じ事を闇の勢力側も行っていたのである。クイーンの復活にひかりの成長が必要だったように、館の少年の成長がジャアクキングの復活に必要であったのである。館の少年もひかりとおなじように、3幹部や執事ザケンナーに家族を感じ、“日常”を築いていて、自我を得たのである。
 おそらく、低年齢層向け作品の命題か、「悪役」が倒される勧善懲悪物として、バルデスジャアクキングは倒されるが、それを単純な記号として受け流すことができれば、ひかりと館の少年の対話で締めくくったともとれる物語である。

■自己犠牲の否定

 自己犠牲を単純化して「特攻の美学」だとすると、最終決戦でプリキュアのブレスを壊すだけに特攻した3幹部をそれとして、その後、ブレスレットを復活させることによって、なんにもならなかったとすることにより、自己犠牲の否定の物語ととることが出来る。
 しかし、光の園の為に戦うプリキュアという括りにすると、戦う事自体が自己犠牲的にとれてしまう。それを否定するのは、プリキュアが日常を大切にする物語という点にある。日常生活の大切さを丁寧に描くことにより、「自分自身の日常を守る為に戦う」物語に転じ、自分自身のための戦いに転じているところだろう。
 これは、前述した守るべき光の園の象徴としてひかりという存在を出して、漠然とした妖精の世界を守るという話から、ひかりとの日常を守るべき大切なものという具体化をした。そして、「誰かの犠牲に上なり立つのはいやだ」と。また、あえて、光の園を守るということと、虹の園を守るということと、自身が謳歌する日常を守ることを同一線上に持って来たという物語ゆえだと思っている。作中では最終決戦で、プリキュア側がぼろぼろになって絶望の淵に立たされた時、ふと日常の話をすることにより、プリキュアとして戦う非日常と日常が等価値であると示されている。

■奥ゆかしいなぎさとほのかの物語とわかりやすさの恋愛話

 初代、MHにとって、なぎさとほのかの絆の話は骨子であるが、「ふたりは仲良し」といった直球的な単純性だけではなく、ものすごく奥ゆかしく二人の絆を描いている。初代には仲直りの手紙が秀逸だった“伝説の8話”があるが、MHでの、ほのかがパリに移住するかどうか悩んだ時の話も秀逸だった。気をもむ周囲に対し、なぎさとほのかはどこか落ち着いた雰囲気があり、最後はラクロスのキャッチボールで締める。キャッチボールで語るというのは見方を変えれば体育会系的なのだが、二人で何かを一緒に行うことによって、相手の表情や感情を読み取ることによるコミュニケーションととれる。大きなお友達的にはそのあたりの奥ゆかしいコミュニケーションに百合のにおいを感じ取るのである。
 その反面、なぎさの藤Pに対する恋愛話はすごく単純でわかりやすく作られている。「誕生日覚えててくれるかな」とか「試合の応援したい」とか「誕生日何送ろう」とか、実際にセリフに出して表現する。終盤での遊園地でのグループデートではなぎさ自身がなぜ藤Pの事が好きかを整理して、(聞こえない距離で)思いっきり想いを叫ぶ。
 恋愛物として王道をやっているおかげで、素直に藤Pとの関係を応援したい流れになっているが、藤Pの存在が「日常を楽しむ為に必要な要素」とするならば、それはほのかとの関係性だろうと百合的な妄想をしてしまっても責められることではないだろう。
 筆者は初代放送当時、ネットで「百合キュア」と比喩されていることに対し、必殺技の度に手を繋ぎ「ギュッ」と強調するところに百合的要素を見いだしているだけかと勘違いしていた。今回、じっくり見直してみると、百合的要素というのは日常シーンの方にあると強く感じた。その想い方はプラトニックラブ的で、友人以上恋人未満的な関係性を見せることにより、百合的要素を見いだせる作りになっている。最もその、「友人以上」というのは「親友」に繋がる話として作られたであろうけど。

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今日のシェイプボクシングもおやすみ。
体重は+0.3kg。
唐揚げ食い過ぎた割には増えてないかな。

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今日のラブプラスも割とサクッと。
寧々さんやリンコからの写メが嬉しいw