フレッシュプリキュアの考察

フレプリの考察書きました。

主にフレプリってSFだったんだよって話。
そういう視点で見てた人にとっては、「まあ、そうだよね」的な話だけど。

SF色が濃い女児向けアニメって自分は他に知らないなぁ。

敵組織をSF的に作り込むことによって、敵キャラクターの行動が論理的になるんだよね。

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フレッシュプリキュア

フレッシュプリキュアは女児に向けたSFだった

 フレッシュプリキュアはまれな女児向けのSFアニメだった。それは敵組織ラビリンスを中心とした設定で、ちょっとした青年向けSF(に見せかけた)作品よりも、SFエッセンスが濃厚な作品だ。
 しかし、大きなお友達を除く視聴対象者の女児達はフレッシュプリキュアをSF作品とは認識しないであろう。
 その世界観の作り込みはSF的には王道的だが、王道故に基本がしっかりしている。
 未就学児の女児をメインターゲットにした作品でこれだけ骨太なSF作品が出来たというのは、「プリキュア」というフォーマットを利用したおかげだともいえる。「プリキュア」という固定概念があるので、難しい話をしても、「プリキュア」として単純化することが出来る。
 本作をSF作品という認識をしなくても、「女の子がプリキュアに変身して悪いやつと戦う話」という捉え方でも問題はない。
 失敗しているSF作品の一つにSF的設定を受け手に押しつけがちという点があると思うが、本作はそもそもSF的設定は表層からは隠蔽し、それに気がついた人はさらに楽しめるという構造になっている。

■管理国家ラビリンス

 ストーリーの端々から、プリキュアに敵対する組織「ラビリンス」が極度に管理された国家というのが見えてくる。
 出生率や死亡を管理するというセリフはストレートにそれを示唆している。また、ラビリンスの出身である、せつな(イース)やウエスターはドーナツに感激し、せつなは執拗にピーマンを嫌がる。それから察するに、ラビリンスでは食事も完全に管理下に置かれているのだろう。具体的に想像してみれば、カロリーメイトとサプリ程度の食生活というのが見えてくる。
 また、出生もコントロールされているため、「家族」という概念はない。
 そのため、ラビリンス幹部だったイースはラブを中心とした“家族”を知り、ラビリンスと対峙することを選ぶのだ。キュアパッションと化したイースは「悪いやつだから倒す」という単純性ではなく、個々の幸せとは何かというのを自身で考え、ラビリンスの住民を変えようとするのだ。
 また、ラビリンス上層部がウエスターよりどう見ても有能そうなイース捨て駒としてあっさり捨てられるのも管理国家ゆえんであろう。住民を管理するということは、成績上位は簡単に把握でき(把握しているのは上位だけではないだろう)、文字通り“代わりの駒”を探すのにさほど手間がかからないのであろう。

■無限のメモリーで世界を支配するということ

 中盤からのキーになってくるのが「無限メモリー」だ。ラビリンスは無数に存在するパラレルワールドを支配するのに必要な物としている。それは、ご都合主義的な魔法のアイテムではなく、また、強大な武力でもなく、無限のメモリーそのものがラビリンスのいうところの「支配」に必要なものだ。
 メモリーと言った場合、「人の記憶」とも「データの記録」ともとれる。しかし、この場合はどちらでもかまわないともいえる。なぜ、どちらでもかまわないとかというと、管理社会ラビリンスにとって「人の記憶」とはデジタルデータ化できるものとして捉えるからと考える。
 ラビリンスのいう「支配」とは、DNA含め、ありとあらゆる物をデータ化し、管理することであると推測できる。
 そして、時間跳躍によるパラレルワールドが存在するなら、パラレルワールドは無限に存在することになる。
 少し脇道に入るが、筆者はラブの祖父のエピソードは時間遡行によるパラレルワールドと考える。理由としては、ラブがプリキュアになってラビリンスと対峙した後でなければ、過去へ時間遡行することも、他のメンバーが“過去へ”メッセージを送ることも出来ない。これは時間の概念の捉え方にもよるが、時間遡行による世界線の移動がおきていると筆者は推測する。世界線という概念を持ち出すなら、平行世界、つまり、パラレルワールドが存在することになる。多少理屈っぽいと自覚する筆者でも、他の女児向けファンタジー作品なら、そこまで考察はしない。しかし、フレッシュプリキュアという作品は、敵組織ラビリンスがパラレルワールドの支配を企むという話で、別のパラレルワールドへの移動や干渉能力を持っている。つまり、パラレルワールドは存在する世界観であり、時間遡行するなら、世界線の移動を伴う世界観でもこじつけ的ではないだろう。
 話を戻すと、その、無限に存在する全パラレルワールドをデータ化し管理するには、文字通り「無限」の「メモリー」が必要になるのである。
 管理国家ラビリンスは極端に描かれていて絵空事であろう。しかし、人間のデータ化というのは現実で進みつつある問題だ。
 管理国家といえば、間違った共産主義国家を連想するのはたやすいが、ソ連が崩壊して20年以上経った今では遠い話すぎて暗喩になりにくい。
 あえてわかりやすい所でいえば、学校による生徒/児童のデータ化であろう。通知表はもとより、全国テストやそれに関連した偏差値などでデータ化されている。「どの高校・大学に入るか」は、個性よりもデータ化である「成績」に左右される。
 データ化を欲しているのは、学校だけではない。「国民総背番号」といわれる法律もそれ自体に悪意は感じないが、国が国民をデータ化し管理したい欲求による物だろう。
 また、インターネットの世界はもともとデータ化と親和性が高く、データ管理社会が進んでいるともいえる。amazonで買い物をすれば、割と高い精度で趣向にあう“おすすめ商品”が表示され、googleは全てのデータをgoogleで検索できるように進んでいっているように思える。
 amazongoogleによるデータ管理化は利便性とも密着している話で、その利便性になれた身としては、データ支配による管理社会が透けて見えていたとしても抗いがたい。
 今の時点では「そうはいっても、心までは支配されないだろう」とも言える話でもあるが、田舎住まいの筆者としては、amazonで売ってない商品は「入手できない」にかなり同義に近い。また、日常的にgoogleで検索をしている身としては、「google検索でヒットしないwebサイト」は存在しないのと同義に近い。『我々はすでに管理されているとも言える』

■クローバータウンストリート

 プリキュア達は主にクローバータウンストリートで過ごす。
 このクローバータウンストリートとは、管理国家ラビリンスと対になる存在である。
 クローバータウンストリートは寂れた商店街にもならず、ショッピングモールにも浸食されていない、ある意味「ファンタジー」な商店街だ。
 多少余談的になるが、ショッピングモールは管理社会と親和性が高い。買い物も食事も娯楽もショッピングモールでまかなえばいいのである。よって、ショッピングモールは管理国家ラビリンスに対抗しうる“力”を持ち合わせていない。
 クローバータウンストリートは“人情”が及ぶ範囲の社会とも言える。それは「○○商店が困っているなら助けに行こう」というのが通用する社会である。「amazonがあるから、あそこの商店がつぶれてもしょうがないよね」とはならない。人情の社会の象徴として昔から変わらず人々を見続ける駄菓子屋が登場する。
 クローバータウンストリートが四ツ葉町商店街から名前を変えたのは、世の中に迎合しつつも、存在を保っている象徴であろう。
 しかし、危ういバランスのうえで成立している話だ。ラブ家の話である。ラブの祖父は手作業にこだわる畳職人だった。しかし、一人娘の婿がサラリーマンということで、店を継がせず祖父の代で終わらす。これは、機械化による合理化を進めた他店に淘汰されたとも受け取れる。もし、職人技の畳に需要があるなら、血縁者ではなくても跡継ぎは自然発生的に出てきたであろう。「クローバータウンストリート」というちょっと浮かれたネーミングをしつつ、現存の商店街が抱える問題を作品にとり入れた点だと思っている。

■守る“日常”の可視化

 フレッシュプリキュアではプリキュア達が守る「日常」をクローバータウンストリートという形で可視化した。
 他のプリキュア作品も主に学園生活を「守るべき日常」として可視化は行われている。しかし、最終決戦に近くなると、「世界を守る」事が命題になるため、守る対象が大きすぎて漠然としてしまう。
 その点、フレッシュプリキュアでは管理国家ラビリンスではなく、自分たちが選ぶ「未来」「日常」として、クローバータウンストリート(と、公園)を表現している。もちろん、こちらの世界全体がラビリンスに支配されるという危機はあるものの、プリキュア達が守る社会の具体的縮図としてクローバータウンストリートは可視化されたと考える。

■せつなという普通の女の子

 元ラビリンスの幹部イースは“せつな”としてプリキュア陣営になる。せつなというキャラを属性で見た場合、「元敵幹部」という点以外はきわめて普通の女の子だ。勉強が得意なわけでも、運動が得意なわけでも、女の子女の子した子でもない。そこに重要なポイントが潜んでいると考える。せつなというキャラにとって「普通」という属性が何より重要なのである。どういう事かというと、ラビリンス産まれでラビリンス育ちで、つい最近まではラビリンス総統メビウスに忠誠を誓っていた人も、こちら側では“普通の”女の子なのである。つまり、ラビリンスの住民達は「普通の人達」なのである。
 コンプレックスの固まりでもなく、特別な野心があるわけではない普通の女の子が洗脳次第では命をかけて総統に忠誠を誓う幹部になるのである。
 ちなみにプリキュアのテーマ、キュアピーチ「愛」、キュアベリー「希望」、キュアパイン「祈り」と、行為などを差し、その結果として、キュアパッションは「幸せの証」と高らかに宣言するのである。

カオルちゃんのドーナツ

 フレッシュプリキュアのキーのひとつに「カオルちゃんのドーナツ」がある。
 ドーナツとは精製された小麦粉と砂糖と油の固まりで、カロリーは高いが栄養価は低い。
 なぜそのドーナツがキーになるのか。
 前述もしたが、ラビリンスにおける食事というのは、カロリーメイトサプリメントといった、効率を重視した物であろう。そこには個人の趣向が入る余地はなく、現実のカロリーメイトにあるチョコ味やチーズ味といった味付けもない可能性が高い。バランスよく栄養が取れて計算の範囲内ぐらいに健康に育てばそれでよいのである。そこには単にカロリーが高いだけのドーナツが入る余地はない。
 逆説的に食べるものが管理されていないこちらの世界では、カロリーが高いだけの、しかし、甘くて美味しいドーナツを食べる自由がある。
 ラビリンスの住民による市民革命は最終決戦というクライマックスに合わせられたため、充分に描写できたとは言い難いが、ドーナツを食べる自由と通して、女児にもわかりやすい“市民革命”を表現できたとも言える。少し大げさに言えば、フレッシュプリキュアにおいてドーナツとは人間性の象徴である。ドーナツに心酔した敵幹部ウエスターはドーナツに関わる時は特に人間らしく描かれている(それ以外でもかなり人間くさいキャラではあるが)。
 

プリキュアへのスカウトを断るミユキさん

 イースキュアパッションとなる以前、ダンスのコーチであるミユキさんに「プリキュアにならないか」とスカウトするが、「ダンスに命をかけている」と断られる。「プリキュア」を概念的に見て女児達の憧れとするなら、プリキュアというのは「カワイくて」「カッコよくて」「踊れて」、ついでに「世界も守っちゃう」スーパーアイドルである。毎作キャラソンが出ている所からするに「歌える」と思っている女児も多少なりともいるであろう。
 その視点からすれば、「ミユキさんもプリキュアになって踊ればいい」と思うだろう。しかし、ミユキさんは物語の構造で言うと“道を指し示す大人役”である。
 プリキュアのマルチ性はプリキュア5の主題歌を引用すれば「大きくなったら何になりたい? 両手にいっぱい 全部やりたい!」である。この欲張りな感じは、大きな可能性を秘めた中学生だから許される的な所がある。中学生という具体的時期をあえてぼやかすなら、思春期とも言い換えられる。その時期の「両手にいっぱい、全部やりたい」というのは、可能性が秘められているという点で、大いに肯定される物だろう。しかし、私たち“大人達”は、何かを捨てて何かに専念する大切さというのを体験的に知っている。その大人の象徴がミユキさんでもあるのだろう。
 それに隣接した話で、プリキュアを支えるテーマに「願いは諦めなければ叶う」というのがある。それは、まだ、何の才能を秘めているか見当も付かない思春期の応援としては妥当な物であろう。しかし、現実としては、「叶わない願い」もある。一方で夢を叶えた人は「諦めなかった」からとも言える。また、夢を叶えるために諦めたこともあるだろう。
 しかし、その大人の見方はプリキュア達が少し大人になってからでも遅くはないだろう。
 プリキュアのテーマ的に言い換えるのであれば、プリキュア達が守るのは「日常」であり、その日常を守るという「夢」のためには諦めてはいけないという話だろう。

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今日のシェイプボクシングもおやすみ。
体重は-0.1kg。
3食食べたので増えているかと思った。

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今日のラブプラスもさくっと。